人類は2時間以内にフルマラソンを走ることができるのか。このチャレンジを最初に行ったのが、2017年5月6日に開催されたナイキでのBreaking2でした。Breaking2はナイキのランニングシューズの広告という意味では大成功でしたが、残念ながらサブ2には26秒足りない2:00:25という記録で終えました。
ナイキはその目的を達成したのもあり、その後は2時間切りのチャレンジは開催されませんでしたが、マラソンに関わるすべての人の中には「サブ2は可能なのではないか」という思いが種火としてくすぶっていました。
それを確認するために手を挙げたのが、世界的企業であるINEOSです。前回はサーキットという閉ざされた空間でのチャレンジでしたが、今回はオーストリアのウィーンで公開チャレンジという形で開催されました。
チャレンジャーはBreaking2で2:00:25を記録し、世界最高記録も更新したエリウド・キプチョゲ選手です。Breaking2では3人のチャレンジャーがいましたが、今回はたった1人しかいません。
INEOS 1:59 Challengeと普通のマラソンと違うのは、1チーム7人のペースメーカーが入れ替わりながらキプチョゲを引っ張るというもので、そのペースメーカーも前を走る車によってペースを確認できます。
ちなみにペースメーカーの中には、旭化成陸上部所属の村山紘太選手も加わっています。日本人らしい美しいフォームでキプチョゲ選手を引っ張っていました。
※投稿時「村山紘太選手」が「村山謙太選手」になっておりました。申し訳ありません。
1kmを2分50秒で淡々と走り続ける。それはレースというよりは、ペース走のトレーニングに近いものがあります。実際にキプチョゲ選手はそのようなトレーニングを積んできたのでしょう。
かつて1kmを3分ちょうどで走れば、どんな大会でも優勝できると言われていました。1kmを3分というのは、100mを18秒で走るペースです。ところが今回の設定は1kmを2分50秒ですので、100mを17秒で走ります。
たった1秒の差と思うかもしれませんが、このレベルになってくると1秒を削ることの重みがまったく違います。
もちろん世界のトップレベルの選手ですので、1kmを2分50秒というスピードそのものは決して速いものではありません。キプチョゲ選手は1500mを3分33秒の自己ベスト記録を持っています。これは1km換算で2分22秒というタイムです。
問題は1km2分50秒を42回繰り返さなくてはいけません。
レースは1kmを2:48〜2:52のペースで、大きな変化もなく進みます。2:48で走ったあとには、意図的にペースを落として2:52にしているように見えます。徹底して平均ペースを1km2分50秒にこだわります。
気持ちとしては少しでも前半に貯金を作りたいところですが、それではギャンブルになってしまいます。徹底したイーブンペースで走り抜きます。
そうなってくると観ていて退屈になるかと思いましたが、まったくそんなことはありません。MGCのような緊張感もあり、観客も大勢いるのでお祭りのような雰囲気もありBreaking2とは違った面白さもあります。
そして20kmを超えたあたりから、キプチョゲ選手の走りがやや厳しそうになります。そこまでは流れるようにスムーズな走り方をしていましたが、少し力を入れているように感じます。ペースメーカーから少しだけ離れてしまう回数も増えていきます。
ただ、それも想定内だったのでしょう。フォームは崩れてもペースはまったく乱れません。30km前くらいには体幹もブレてハラハラしましたが、ペースメーカーが入れ替わるタイミングで立て直しが行われ、残り10kmとなったあたりから、本来の美しいフォームを取り戻します。
そこからはもう余裕の走りです。Breaking2のときのようにスピードがジリジリと下がることなく、憎らしいほど正確に2分50秒を守り続けます。もうペースメーカーから遅れることもなく、むしろペースメーカーにぶつかりそうなくらい力強い走りに変わります。
もう自分の中でサブ2の達成を確信していたのでしょう。それでも、ギリギリまでプラン通りに走ることを優先させます。そして、残り1kmを切ったところで、キプチョゲがペースメーカーの前に出ます。
1時間59分50秒でのゴール予測でしたが、それを10秒も上回る1時間59分40秒2で歓喜のゴール。とうとう人間が2時間以内にフルマラソンの距離を走れることを証明してしまいました。
INEOS 1:59 Challengeはたった1人に2時間以内でゴールさせるためのイベントで、正確にはフルマラソンを2時間以内に走ったことにはなりません。ただし、キプチョゲにはまだ余裕がありました。
少なくとも彼の体はサブ2の走りを記憶しました。来年のベルリンマラソンでは当然サブ2を狙ってくるはずです。そして今回の結果によって、すべてのランナーにとってフルマラソン2時間の壁が崩壊しました。
1マイル4分の壁、100m10秒の壁と人類には様々な壁がありましたが、それを誰かが超えると、同じように超えてくる人が次々と現れます。実際に日本人にとっての100m10秒の壁は桐生祥秀選手が切り崩したことで、すでにサニブラウン選手と小池選手が9秒台に突入しました。
ここからは本物のフルマラソン2時間を目指す戦いが繰り広げられます。日本人ランナーにとっては苦しくなりますが、10年後20年後には日本人でも2時間切りがあたり前になっている時代がやってくるかもしれません。
INEOS 1:59 Challengeがマラソン新時代の幕開けとなる。そんなワクワク感のあるレースでした。レースはYouTubeで視聴できますので、まだ観ていないという方はチェックしておきましょう。たった2時間で終わってしまいますから。
ちなみにキプチョゲ選手の足を支えたシューズは……いや、この話はまた別の機会しましょう。